女は繊細な少女であり、過激な淑女である

女は繊細な少女であり、過激な淑女である

少女性を大事にする皆様ごきげんよう。
初めまして赤城文(あかぎ・あや)と申します。

まずは簡単に自己紹介をさせて頂きます。

2000年11月28日生まれ。 アイドル。作詞家。文筆家。DJ。
アイドルユニット「ミレディ♡チャーム」の作詞と振り付け担当。バンド「いばら姫」のボーカル。
50.60年代の邦画、ガレージロック、昭和歌謡、90年代美少女写真集などが好きです。
特技はクラシックバレエを12年間と日本舞踊やヒップホップも習っていたので踊る事です。
FREEZINEにてコラム「文系恋人放浪中」連載中
「文系恋人放浪中」 by 赤城文 | FREEZINE(フリージン)

今から記す内容はジェンダー問題に関するものではなく乙女心のすぐ側で目覚めているオンナ即ち少女性のお話なので悪しからず。

唐突ですが年齢問わずこの世の全ての女性に少女性はあるんですよね。

少女性と一口に言っても、更にこの言葉の中で分類分けがされているのですが

例えば恋愛で父性を求める事も少女性だし、幼い頃に愛した少女向けのお洋服や雑貨に大人になってから再熱する事も少女性だし、何もできない自分を演出して常に周りの人間をお兄ちゃんやお姉ちゃんにして妹的な立ち位置を維持する事も少女性だし…上げたらキリがないですね。

少女性は分かりやすく善悪が表裏一体なのと感覚的な言葉なので非常に語りにくいのですが、十代の頃に若さや自分が思う少女像に一生懸命縋っていた私が少し大人になってみて気づいたのですが

少女の歳にしては賢くておませでずるくて自分の武器を最大限に理解していて一枚上手な少女に対して「少女性がある」と言う節がありませんか?

世間に弄ばれているように見えて、弄ばさせている。

世間に抱かれているようで、抱いている。

純真無垢で恋愛やおしゃれに関心がない女の子を「少女」ではなく世間は「子供」と認識している気がします

少女なのにませている時点で「少女性」とは何なのか?という話になってきますよね

都合の良い部分だけ大人の女であって欲しいという幻想から生まれた「少女性」という存在

アリスが起源だの澁澤龍彦が「少女コレクション序説」で説いたと言われても少女性は少女の時を過ごした我々にしか分からなくて良いのです。

今回は男性から見た少女性の話ではなく少女性に向き合う女性のお話をしていますのでね。

私の周りの少女性を大事にする女性は恋愛面やファッションに大きく反映させている方が多いです

意中の男性を翻弄する際に突然幼い子のように我儘を言ったり駄々をこねますが、友達の前では友達の涙をすぐさま拭うような母性も携えており

人類の欲っするもの全てを理解(わか)っている感じに少女性を感じました。

私が10代の時にこの世は私のものと勘違うぐらい男女問わずチヤホヤされたので20歳になる手前若さを失うのがどうしようもなく怖くなって、薄化粧にフリルを纏って若さだけで近づいてきた周りの人間にどうにか縋っている時期もありました。

もうこれが根本的に間違っているんですよね。

少女性は実年齢にしてはませていて賢い事を指すのですから。

淑女の幼少期をただ少女性と呼ぶのではないかなと。

溌剌とした好奇心を上手く操縦するハンドルを持つのが少女性なので無垢なだけじゃないのが魅力ということは我々の心の中でいつもオンナと少女が会議しているという事。

私のフォロワーの女性方が少女性を失うのが怖いと呟いていらっしゃるのをよく拝見致しますが、若さや幼さが少女性じゃないという事をお伝えしたかったです。

フリルや巻き髪ツインテールは人を選びません。

人が勝手にフリルや巻き髪ツインテールを選ぶだけです。

例えば「〇〇歳になったらロリータを着れない」などの年齢に囚われた発言をする方も居ますが、このような発言はその年齢の方が自由に生きることに対する侮辱でありジェラシーであり自分の未来を自分で縛ってしまっているのでやめましょう

おしゃれは誰にも迷惑をかけません、恋愛も友情も賢く優しく向き合えば誰にも迷惑をかけません(迷惑をかけられる場合はあるけれど)

三島由紀夫が「もし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、自分の頭の 中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。」三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より

と仰っていたのですがこれも少女性に非常に近いと感じました。

爪の先まで塗り替えて髪まで良い香りにできる時代だし体の全てのパーツに何かを施す事ができるわけですから、どんなにお洒落をしても頭の中だけ空っぽだとバレちゃうワケですね

かわいいだけじゃないのが魅力なのが少女なわけですから。

乙女心に知性を兼ね備えた物が少女性、つまり現実では少女性は少女じゃないのかもしれない

知性は心の余裕なので一人で勝手に手放したフリルが唯一こちらに近づいてくる瞬間は、頭の中が今よりもお洒落になった証拠なんだと思います。

いつだって子供と大人の狭間でグラグラと揺れる熱い紅茶が注がれたティーカップなのです。

見た目も香りも素敵、お味はちゃんと時間をかけて冷まさないと火傷の恐れあり、ましてや割ってしまうような事があれば大火傷という危なっかしさや繊細さと強かさを兼ね備えている所はシンプルに女性の性質そのものだと

なので女性の皆様誰もが少女であり淑女なわけです

映画「月曜日のユカ」を観てユカに対して「幼い」と思う方もいれば「大人っぽい」と思う方もいるでしょうし

小川洋子先生の小説「ホテル・アイリス」を読んでマリに対して「少女だ」と思う人もいれば「こんな少女はいない」と思う方もいますでしょうし

私はYMOの「過激な淑女」を聴いた時に少女を感じました。

黒い豹のような視線を持つ淑女なのにベッドまで男性に運んで頂いている様子はまるで子供のようで非常にアンバランスな感じがやはり魅力だと思います

二面性をうまく使いこなし、謎は謎のまま、これからも時には大胆に自由に生きていきましょうね❤︎

 

ライター 赤城文(あかぎ・あや)

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