マリー・アントワネットの映画って意外に少ないね。
残暑厳しいですね。暑い中お疲れ様です。
今回は、マリー・アントワネットの映画を紹介していきます。で、何にしようかと思ったのですが、見られるものが少ないことに気が付きました。
わたくし、ソフィア・コッポラ監督の「マリー・アントワネット」が非常に好きなんですけれど、それはまたの機会にしまして、モノクロの古い映画を紹介することにしました。
1938年アメリカ公開「マリー・アントワネットの生涯」です。
頭のお星さまに目がいってしまいます。ほかにも鳥かごを乗せてあって、かごの中の鳥(作り物?)が動くというスタイルもできてました。
(のちに恋に落ちるスウェーデン大使との出会いは、ゲームの余興として大使にロシア人としてふるまわせるというわがままぶりを発動したマリー・アントワネット。)
アメリカでの公開が1938年、そして日本での公開は1966年。あいだに30年近くの期間があり、戦争の影響なのだろうなと少し考え込んでしまいました。
大戦争への足音が近づいているころに作られた映画。アメリカは当初中立という立場でしたからね。途中まで。
「マリー・アントワネットの生涯」ってどんな映画
マリー・アントワネットが、オーストリアのハプスブルク家からフランスの王朝へ輿入れ(結婚)するところから、フランス革命によって亡くなるまでを史実に沿った形で映画にしています。カットしている部分もありますが、大体この映画でなぜマリー・アントワネットが悲劇的な最期を迎えたのかわかります。
アメリカ映画なのでフランス語ではないですが・・・
視聴時間は結構長くて2時間20分ほど。
当時はこういうカードが作られていたんですね。ロビーカードといいます。
ハリウッド黄金期(1920年代から1930年代)ギリギリの作品で、主演女優を務めるノーマ・シアラーはMGMスタジオの看板女優でした。
今の女優さんにはあまり見かけることのないクラシカルな気品あふれる立ち居振る舞いで人気だったようです。
この映画で、ヴェネチア国際映画祭で主演女優賞受賞、アカデミー賞でも主演女優賞や美術賞でノミネーションと話題となった映画でした。
映画は、マリー・アントワネットと夫となるルイ16世が対面するところから始まります。
そうそう、少し調べてみると面白いことを見つけまして。
名家の輿入れというのは、先に代理結婚式を行います。その後、正式に輿入れをするしきたりがあったそうで、マリー・アントワネットの場合は、兄との代理結婚してからフランスへ嫁いでいるのです。不思議なしきたりです。
話が脱線しました、その後、マリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿での規則、マナー、人間関係によって、なかなか生活になじめず、パーティなどの享楽に身を委ねます。
母であるマリア・テレジアから何度も行動をいさめる手紙が届くも効果はなく。王妃になってからスウェーデン大使と愛人関係となり、民衆の心をつかめないまま最期の時を迎えるという姿が描かれています。伝記映画ですね。
映画「マリーアントワネットの生涯」観て気付いたこと
・まず、やはりルイ16世はぽっちゃり体形。これはソフィア・コッポラの映画でもそうでしたね。女性との付き合いが苦手な男性に描かれています。
・モノクロでもわかる豪華な衣装。モノクロなので衣装の色は表現できなくとも、ドレスにつけたガラスなのか、スパンコールのようなものなのか、はたまた本物の宝石類か、とにかく撮影照明によって、それらがキラキラと輝きまくるのです。間違いなく狙ってのことでしょう。
この光の美しさに少し感動します。でも、それは、物語の終わりころ、あなたもよく知っているであろう、王妃マリー・アントワネットの最期を思い浮かべると人生の逆転劇をより強調する仕掛けだと感じることでしょう。
・マリー・アントワネットの愛人となるスウェーデン大使フェルゼン役の俳優がめちゃくちゃ男前。(タイロン・パワーという俳優)
フェルゼン大使は、最後までマリー・アントワネットを助けようと試みるのですが。。。うまくいかず。
そうそう、映画では「プチ・トリニアン」での生活のことが省かれていましたので、補足しておきますと…わたくし、ちょっとここは大事なのではないかなと思っていまして。。。
<麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃>ヴィジェ=ルブラン作
「プチ・トリニアン」というのは、ルイ15世がヴェルサイユ宮殿の庭の中に作った離宮です。
こちらプチ・トリニアン。
(ライセンス表示:Myrabella / ウィキメディア・コモンズ / CC BY-SA 3.0 & GFDL)
全部で10数室という小さめの宮殿で(庶民にとってはそれでも大きな家ですが、)森や小川、神殿が見えるようになっていた。ルイ15世が亡くなって、マリー・アントワネットのものとなりました。
宮殿の規則ばかりの暮らしに嫌気がさしていた王妃は、田舎風の暮らしにあこがれ「プチ・トリニアン」で、気の許せる仲間たちと暮らしていました。
そこではコルセットを使ったドレスからコットン生地の胸の下あたりでゆるく締めるシュミーズドレスをよく着ていました。
もちろん仲良しの取り巻きたちも同じように。
また、このプチ・トリニアンに多額の費用をかけ、劇場や庭、村などを作り、愛人であるスウェーデン大使フェルゼンや友人たちと楽しみ、宮殿のいやなことや複雑な人間関係から逃れていました。
ちょっと調べていくと、自然、人間性の復活、自分たちと庶民、などさまざまな事柄を感じ取ることができたかもしれない環境であるのに、王妃マリー・アントワネットは自分たちの楽しみにふけっていたのではと考えてしまうのです。
ここに王妃の限界点を感じます。
母親のマリア・テレジアは夫が政治に興味を持たななかったため、おなかに子供を抱えながら、周りの国が攻め込んでくる状況から祖国オーストリアを救おうと必死になったの対して、マリー・アントワネットは、フランスの財政状況の悪さ、民衆からの不人気といったことが重なっているのに、プチ・トリニアンに逃げ込んで、現実と対峙しようとしなかった。
もしくは、本当にわからなかったのか。
マリー・アントワネットに思う
ベルサイユ宮殿の生活では、多すぎるほどのしきたりがあり、それになじめなかったのは個人的には共感できます。よその国から14歳で、知らない人のもとへ来たわけですから、とまどいもあったでしょう。
あと子どもがなかなか生まれなかったことも不運だったのかなと。結果的にはしっかりと子どもを授かっていますが。
もともとオーストリアとフランスの政略結婚であったことを考えるとマリー・アントワネットは、オーストリアのハプスブルク家の娘(名門中の名門の娘)という意識が抜けきらなかったことが悲劇を生んだのかなとも思えます。
さらに、フェルゼン大使とのロマンスもあるのですが、それは王妃としての立場をより悪くしてしまうことではなかろうか?民衆は飢饉などで苦しんでいるというのに。
民衆と思いの乖離。(今の日本だこれ。)
あなたはどのように感じますか?
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ちなみに1938年公開の2年後、パリは占領されたのでした。
参考文献
「マリーアントワネットの生涯」著者藤本ひとみ、中央公論社、1998年
「フランス王妃列伝」編者阿河雄二郎、嶋中博章、株式会社昭和堂、2017年
執筆者
青木 雅司
美術検定1級アートナビゲーター
画像の左上が私です。こういう画像をたまに制作しています。
アクリル絵の具を使ったマーブリングを撮影して、自分で撮った画像と組み合わせています。
昔、大阪と名古屋でラジオ局のディレクター長いことやってました。
あいちトリエンナーレ2013広報メンバーでした。