
「私たちはサルトルで眠れない〜知性は最大のエロス〜」
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コンテンツを摂取する際に知的好奇心を満たしてくれるような知性と美学を感じられると、非常に高揚しますよね。
聴いてよかった、読んでよかった、観てよかったと心の底から思います。
欲を言えば、好きなジャンルの中で新たな扉が開く瞬間が1番興奮しますよね。
ここ最近のSNSの流れを見る限り、知性に欲情する時代の訪れを感じて、非常に堪らない気持ちです。
知性が最大のエロスなので、知的好奇心を満たすコンテンツへの高揚を欲情だとすると、享受する側も非常にセクシーですよね。
私は他人と深い話をする事を好むのですが、それって非常に女性的だけれど、人と見えない部分で交わり合って安心感や高揚感を得れる、高次元のセックスなのではないかと思いました。
肉体で触れ合う行為は皮膚や骨の壁は分厚すぎるし、心の奥底まで読み取る事は不可能。
自分の気持ちを素直に話してくれる相手との会話なら、幾らでも心の柔らかい部分や堅い部分、善悪も暗さも明るさも、どんな手段よりも1番に把握できる上に、自分と照らし合わせたり、噛み砕いたりする事ができる。
これには自分と向き合う能力、言語化する能力、伝える能力、理解力、更に相手を知りたい気持ちや受け止める気持ちも必要。
その難しさを乗り越えた先に、相手の見えなかった部分が待っていると思うと、複雑なお洋服を丁寧に時間をかけて脱がしていくようなエロスがありますよね。
丁寧さや理性的である事や優しさや真面目さは、エロスの対極に存在しているように思われがちですが、私はまんまだと思います。
下品さ、だらしなさ、不真面目さ、有耶無耶さ。極めて平面的で、すぐ読み終わってしまうような毎月創刊のビニ本ぐらいのピークと薄さだと思います。
人が人に飽きるのって、知性の層の薄さ、すなわちエロスを堪能できる賞味期限の短さゆえだと思います。
かわいいだけじゃダメなんですよね。
かっこいいだけでもダメだし。
分かりやすいエロさがあるだけもダメ。
次のエロスを探しに、すぐにスクロールされてしまうような、してしまうような人生は、この先報われる事はないでしょう。
平面的で多面的な時代に何が1番信用できるかと言ったら、自分できちんと理解している自分の短所だと思う。
改善すべきなのか生かすべきなのか放置すべきなのか、その短所をどう扱うかは自分次第で、その短所をぶつけたくはないけれど、本当は見せたくはないけれど、あなたには把握して欲しいと思った瞬間が前戯ですよね。
人間関係を性行為に置き換えるのは極めて陳腐ですが、人間に宿る知性がどれだけ淫靡なのか、語れる時代が来なかったとしても私は語りたい。
知識をひけらかされる事に全く色気を感じない。突然自慰行為を見せられた気分で、気分が悪いですよね。
知識を語る自分が好きな人間には全く色気は感じませんが、その知識が好きでついつい語ってしまう人間にはエロスを感じます。
それが勉学の知識ではなかったとしても、自分の知らないルーツを辿ってきた人間の「分からなさ」が色っぽいです。
その「分からなさ」が分かった時に、より相手が色っぽく感じます。
質問を投げかけたら、くまなく回答してくれる、言語化できる能力があるという行為が色っぽいのです。
「好き」に理由は要りませんが、好きな部分をきちんと語れる愛情深さと文字数の多さは頭の回転の早さと、感受性の豊かさを感じて、その心は人肌より柔らかいと思います。
極めてニュアンス的なお話ですが、その微々たる違いは大きな違いだと思います。
完全なるエゴイズムとナルシズムで物事を語る表情と、エゴイズムと生理現象の狭間で揺れる物事への愛情を語る表情の違いは、後者の垣間見える本能的な表情が色っぽいのかもしれない。
「好き」にナルシズムが付随すると、全てがつまらなくなる。
「それを好きな自分すら好き」なのではなく、「それが好きな自分が好き」で留まった人間との会話は、細い橋を渡り歩かされているような気持ちになる。
ナルシズムは時に大事だけれど、先行してしまっていると、中身がないと感じてしまう。
大きなお菓子の箱を開けたら、チョコレートが3粒しか入っていなかったら悲しいし虚しいしガッカリする。
自分にしか興味が無いことは悪いことではないのですが、自分にしか興味が無い人間こそ、他者との関わりやぬくもりを求め、色男・色女ぶるのが見受けられる。
そのような人間は結局、肉体同士で触れ合う止まり。肉体だけがエロスの頂点だと勘違いをして死んでいく。
だから、他人の顔や体や分かりやすい地位や分かりやすい言葉ばかりに目がいく。
ここで言う、分かりやすい言葉というのは「嘘」のこと。耳障りの良い言葉のみということ。
例えどんなに美しい顔や肉体を見ても、その顔や肉体の美しさが「磨かれた精神」というルーツを辿ってきた事すら気付かずに欲情する事ができる、失礼極まりないナルシストに何の色気もない。
色気って面白みでもあると思う。
大した結末ではないことが序盤で分かってしまうような本を読む事に時間を費やしたくないじゃないですか。
薄い本は薄い本のコーナーに、一纏めになっておけばよいのです。
人々を本だと思った時に、自分が他人に何を重視しているのか、人間関係をどう構築していくのが好みなのかが分かりますよね。
私は書店で本を探す時に、表情のデザインよりも、表紙含め文章などから漂う全体の雰囲気が好きかどうかで、まずは決めます。そして文章を少しだけ読み進めて、かなりピンときたら本をすぐさま閉じて買います。
直感と様子見、そして直感が確信に変わって購入。
皆様はどうでしょうか。皆様のご意見も気になります。
早瀬友香子の「サルトルで眠れない」(原曲:野崎沙穂)は、まさに知性に欲情する女性の歌だ。
「退屈で死にそうなタイプと 友達はひどいこと言うけど 私にとっては 私にとっては 誰よりも面白い人よ」という歌詞が登場するのですが、知性に魅力を感じて悦に浸っているわけでも、見せつけるわけでもなく、目の前の知性に酔いしれて、2人の世界に入っているのだと感じました。
知的な人間の存在は海のように広く、視野の広さ、思考の深さ、目の前の事を堪能する能力のバランスに長けており、2人だけの世界とは言え、広い海の真ん中に置かれた狭い水槽の中で2人きりで愛し合っているような気分にさえなる。
高層ビルの最上階の密室で愛し合っているような気分にさえなる。
知的な人間の素顔を見れる時間は、人々が深い眠りについている朝方まで起きている、限られた人間にしか見れない美しい朝焼けを見ている時間のようだ。
依存という手口を使わずに、2人の世界に酔いしれられるのです。
サルトルで眠れない女が、知性の中にある「堅さ」を打ち壊したくなる理由は、いつもは冷静な人間の少し困ったような顔が見たいのだと思う。
知性は見方を変えれば堅さや恐さでもあるので、それ以外は全てギャップに感じるのです。
下品な人間が上品さを演じても、少しまともになったように見えるだけ。
上品な人間から垣間見える品のなさや人間味は、ユーモアやエロスに見える。
知性は「生活感」すらギャップに見せる、最大のお洒落であり気品だと思う。
知的な人間はさくらんぼを摘んで齧って、種をお皿の淵に吐き出す姿すら色っぽいと思う。
そんな当たり前の姿すら想像できない知性という鎧は最大の魅力です。
黙っていても、その頭には沢山の思考が詰まっているのだ。無言の時間すら愛おしい筈。
その存在そのものが愛おしい筈。
サルトルを愛してる人を愛し、サルトルすら愛しているのでしょう。
そして私は知性がある人間の顔が好きだ。一目で分かる。
まとまった顔をしている。
魂がとっ散らかっているような、何かに流されそうな顔をしていない。
魂がここに「在る」と知らしめるような眼差しをしている。冴えわたる顔をしている。
どんな言葉でも理解してくれるような安心感のある顔をしている。
その堅さや鋭さや、暗闇を知っているようなオーラが、どことなく恐さを感じさせ、人々をゾクゾクさせ、彼らの本性である深い優しさが見えた時に、その優しさが自分だけに向いていると勘違いをした人間は地獄に突き落とされ、その優しさのバックグラウンドを尊重した人間だけが天国へ行ける。
一見、恐そうと感じさせる人間は同じような人間しか愛せない。一種のナルシズムかもしれない。
いや、それ以外の人間とは分かり合えないような精神と環境だからだ。
色気や、色気を構築する知性、知性を構築する優しさを搾取されない為に、それ以外の人間とは深め合えないのかもしれない。
一見恐そうな人間の愛情と優しさは、さりげないはずなのに人々を砂糖漬けにして快楽を与える。
そのオーラと本性が無自覚に飴と鞭を使い分けて、人々を翻弄すると思うと、知性に勝るエロスなし。
執筆者 赤城文(あかぎ・あや)
FREEZINEにてコラム「文系恋人放浪中」連載中